釜山の6月。夏のはじまりに、日本人の独り言・・

”夜のビーチ”から、昼間も憩えるビーチに変身中の ”広安里ビーチ”

ここ釜山は、6月迎え、一気に夏モードに突入しております。福岡や下関よりわずか300キロ弱の、この海のむこうの隣街から見ていても、あの災害のあと、懸命に頑張っておられる東北の方、支援しておられる全国の有志の方を尻目に、迷走する国家が、痛々しい気持ちです。

ここで生活して3年目だが、日本にいたときは、硬直的で閉鎖的だと思えた、ある種の秩序だった日本人の習俗・風習、それ自体が、カオス的な大陸の無秩序さの名残を残す、だけれども、依拠するシステムや憧れる生活の方向性が極めて、日本と変らない、この国の街で、まさに「日本ブランド」という価値なのだなと、身を持って体感しています。

とはいえ、尚更、ここにいて感じることは、間違いなく、これからさき、大勢は、本当に”アジア”の世紀。

長らく、完成途上だった高層ビルも、続々完成している”センタム”エリアの今。

その時に、きっと「日本ブランド」が、ただ汎用性(すなわち、便利で、性能がよく使いやすい)を標榜しても、”細かさ”をDNAに持つ日本人が、イニシアチブを取れる場面は、限定的だと、思われる。

もうすでに、これを読んで頂いている方は、ご存知でしょうが、汎用性については、この韓国は勿論、どこのアジア諸国の若者も、日本人を凌駕して、死ぬ思いで学習しています。おそらく、企業的な(大量・大規模生産)的な視座では、制度に関係なく、日本人(いや、人間が本来もつ)の「変りりたく」ないという習性が続く以上、”変化こそ生き延びる視座”とプログラミングされたアジア諸国の人々が、累々と侵食していく感は、既知の日本を懐かしむ方には、脅威以外の何ものでないのかも知れません。

なにさまな、おこがましいことを書いてるかと、お思いでしょうが、”貧富の差は当然”という事と、”取らなければ取られる”というのが常道、という社会で暮らしていると、かなりの”呆けもの”でも生き延びる為に、当然、肝に銘じて、微々たる己のリソースでも、何とか磨きをかけて、単なる使い捨て状態を脱し得なければ、存続さえも、ままならなくなる、と思ってしまうものです^^。

広安里大橋を、眺めながら寛ぐ 人たち。
ビーチで、寛ぐ人々 2
在プサンの外国人も、多い プサンのビーチ・リゾート

韓国では、今、現在、連日、大学で、高騰する学費をめぐって、学生がデモをしています。デモをどう捉えるかは、別にして、合理性を盾に、”怒り”を表さない美徳を、逆手に取られる愚かさだけは、もし、日本が変化し、大量生産。大量消費のスパイラルから軸をうつして、コンテンツ国家の魅力で、日本コンテンツを黙していても応援してくれる”擁護者”を創っていくことの必要性を、誰もが心の奥で、認めているとすれば、断じてかわらなければならないことだろう。

過剰なまでの上昇圧力と競争。欧米とは違い、人がひしめくアジアでは、例外なく、その軛(くびき)はついて回る。だからこそ、その必要性と闇を、アジアの中でいち早く体現した、日本人の持つ感性を、堂々と差し負けないで、提示すれば、いいと思う。ある意味では、”いいひと”と思われなくても・・・

訳のわからないことを、列記しましたが、備忘録由、お許しください。

昼下がり の ビーチで、憩う カップル達・・

ところで、サイドバーにつけている、動画。ひとつは、いわずと知れた押尾コータロー^^。韓国も、ヒップホップやガールズグループが席巻する一方で、ひそかに、ギターブーム。うちの高校生の甥っ子も、日本のアコースティックギタリストにはまり、この間は習いはじめてから2ヶ月で、見事に押尾氏の黄昏(たそがれ)を、披露してくれた。

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=tCRKD1gbroI&feature=related[/youtube]

もう、ひとつは、イ・ソラ。「パラミ・ブンダ」(風が、吹く)を、はじめて聞いたとき、アイリッシュ・ミュージックマニアの自分達は、韓国の歌手の歌を聴いている気がしなかった。と、同時に、くしくも押しつぶされそうな困難に際して、懸命に怒りと悲しみを堪えて頑張っているひとと、是非、日本で聞いてみたいと思ってしまった。