2018年10月1日 釜山の秋に、想うこと。

これなんの看板か、一見、わからないですよね。昔の、怖い時代の警察署モード。ま、字面読めば、テジカルビの店ですが、とにかく、個性溢れる若い感性が、跋扈する西面エリア。色とりどり、百花繚乱のファサードや趣向で、軒を連ねている中で、逆手を狙ったのか??

韓国・釜山は、10月を迎えました。私どもは、韓国にはおりますが、日本のお客様に対して、サービスを提供させて頂いております。今日の釜山は、まさに秋晴れで、涼しいと思えるほどの気持ちのよい風が、麗らかに吹き抜けていきます。

朝のTVでは、日本をもう今年何度目になるのか、縦断した台風の影響が夜が明けて、明らかになり、それでも度重なる天災で、収斂している思いきった対応で、韓国にいれば10年に一度起きるかの災害を、ひと夏・秋で受けて、それでもすぐ復興していこうと頑張る。

長きに渡って関空(KIX)からのお客様を迎える、また、日本での案件に関しては、関空に降りるというのが結構、習いになっておりましたので、まさか関空自体が、水没するなど考えていませでしたし、幸い、当時、本当のところはどうかわかりませんが、大阪のお客様の会社自体は、「うちは、大丈夫です」と皆さん、気丈にも仰られておりましたが、9月の私どもの案件も、偶然、大阪からのお客様で予定されていたものが、全て順延になったほどでしたから、現場の大変さは、いかばかりかと思っておりました。

そのうえで北海道しかも、千歳圏ないしは札幌をほぼ直撃する地震が起きるなどは、予想だにしない事で、ありました。

自分が長きに渡り過ごした場所の、信じられない光景は、他の被害地域の大変さを思う事とは、また少しく違う感情を、惹起させました。

東海線乗り入れで、活気づく、KORAIL釜田駅、周辺。
この日は、25日でしたか、まだ、秋冬(チュソク)が明けきらず、開店しているお店も、まばらでした。
釜田市場、ここにあるのは、嗜好品ではなく、人が生きていくために、必要なもの、本当に、なんでも、あります。韓国伝統の補身の素材。
地下鉄1号線の釜田駅の、壁面に描かれている、市場ので働くアジョンマのイラスト画。このタッチが、なんかいいんです。

そんな中、こちらに戻る、日本での最後の一年間、本当に小さな韓国語の教室をしていた時の生徒さんが、ある方の訃報を知らせて下さった。「Nさんが、ご逝去されました、ガンでなんども手術して。ランニョンさんにも、何度か、手紙を書いたんだけど返事がなかったと、悲しがっていました。」なにか、撃たれたような、言葉では説明できない衝撃と、北の辺で、吹雪のなかも、本当に嬉しそうに熱意を持って、至らないその方から見れば若輩の私を、女手で水産加工場を切り盛りする女丈夫でありながら、「先生、先生」と慕ってくれた、その方の背筋を張って勉強する姿が、昨日のことのように、甦ってきました。

本当のことを言えば、その時のできごとの全てが濃密で、そして、それは言葉では説明し難いことに思えて、でも、それはもう戻れないことでもあるのだからと、その思いを業務に託して、それを糧にここでも頑張ってきたのだと、思っていました。

東莱・温泉場エリアにある、雰囲気のある、洋食のお店
最近は、南浦などの従来の繁華街ではなく、エリア毎の一見客相手でない店のなかに、面白い魅力的なお店や、試みが目立ってきています。温泉場エリアも、面白くなってきました。

日本と韓国を、またこの台風が鎮まれば、沢山の人が行き交います。今回、日本政府は、北海道割りという、北海道への思い切った支援を敢行するようです。私どもも、内容を詳しくは精査していませんし、災害を受けてきたのは、北海道だけではないという方も、おられましょうが、秋から冬にかけての北海道を楽しむには、画期的な試みと思います。どうぞ、北海道を走り廻った人間が言うことですので(笑)、釜山ともども、足を運ばれてください。

想い出。ごめんなさい。有難うございました。

まるで貸切・今・話題の釜山”そぞろ歩き”

1月も早半ばです。昨日は、釜山での衣料品の買い付け等に、急遽、お越しになった山陰からのお客様と、久々の街中での、商談同行通訳に参りました。

最近は、枕言葉のようになってしまっていますが、「釜山、大丈夫でしょうか。」とのお尋ねから、お問い合わせが、御座いました。大使や、総領事の一時帰国や、ネットやメディアの報道からすれば、当然のこととも、思いますが、少しでも、時間に猶予があるときは、私どもでは、実地に検証してから、お客様をお連れします。

政治的懸案で作られた官製の争議(それだけに、恐ろしいのですが)と、本当の紛争とはわけが、違います。

お客様の安全(車の往来以外に、今の釜山に、普通にしていれば、どんな危険があるのか、よくわかりませんが)には、充分に配慮しつつも、それを逆手にとって、ゆったりと混み合わない、港町情緒を、感じて頂けたらと、お時間に猶予があるとのことでしたので、自由に散策させて頂きました。

たまたま、近くにようがあって下車した、地下鉄1号線「草梁」駅。 日本領事館の、最寄り駅。
そのすぐそば、在来市場、「草梁市場」の風景。
草梁市場 2
草梁市場 3
草梁市場 近くの和食の店

凡一駅下車の自由市場で、2時間ほど見て周り、運よくご入用の商品を買い付けることができたので、南浦洞界隈の衣料品店も漁りつつ、釜山観光と相成りまして。

まずは、歩いてすぐの、釜山の中華街。この界隈は、中国の方のお店は、勿論、ロシアの方、フィリピンバーなど、混成していて、夜には、歓楽街の顔も持っているところです。

草梁からちょっと歩くと、釜山の中華街、 「上海ストリート」

沢山の中華料理店が、軒を連ね、中国人学校もあったりします。

昼のランチは、その中の外観、綺麗なレストランで。点心と蝦チャーハン、坦坦麺。お味は、???中華街の美味しい店。課題は、つきぬ(苦笑)
釜山・中華街の変遷を紹介している、新設された、案内スペース

中華街を後にして、その向い側は、KTX釜山駅、なんか盛大に太鼓の音とかして、”すわ市民団体のデモか”と、身構えたのですが、さにあらず、釜山オムク(かまぼこ)祭りのイベントでした、沢山のオムク(かまぼこ)の屋台テントが、出展していました。※写真は、お客様に何かと、説明していて、漏れです。ごめんなさい。

ここからは、タクシーで、南浦洞へ、光復路ストリートを,いつものように散策。

 

ブティックや、装飾小物、カフェ、レストランが連なる、緩い坂道を歩いていきます。

この赤いお店は、ハンバーグレストラン。とんかつが、大きく先行しているお国柄ですが、ハンバーグの店も最近は増えています。日本のファミレスなどは、大うけするでしょうが、なかなか・・苦笑。
音楽が大好きな人が多いので、楽器店やライブハウスも市中に結構あります。^

坂道を上がりきって、また少し歩いて見下ろすと、国際市場の裸電球が並ぶ、小路が見えてきます。さて、国際市場へ。

ちょっと、のどが渇いたので、ロッテリアで、一休み。

暮れなずむ国際市場、こんなに空いて、のんびり見て歩くのは、本当にひさしぶり^^。

この写真では、わからずらいですが、この界隈きっての人気ホテル。

そんなこんなで、BIFF広場に出てきました。ここは、相変わらずですが、ローカルに盛りあがっていました。いつも、行列作っていた中国の人もまばら、徐徐に戻って来られていた日本の人の影はみえず・・でも、だから、貸切。(泣き笑い)

どの屋台も盛況。老若男女、屋台のおでんと、トッポキ等は、かかせません。マンドウも。(日本で、いえば餃子)
釜山といえど、そこは真冬、皆、重装備で服がかさばり、隙間がない。

屋台の喧騒を見ながら、大通りを渡ると、そこは、釜山の魂、チャガルチ市場。

郊外の工場や、企業や会社訪問が業務のメインになっていたので、実は数ヶ月ぶり。

あんこう、旬なのか、店じまい近くの時間帯でしたが、粋がよいのが、沢山。日本では、鍋でしょうが、ここでは、コチジャンのヤンニョンであえて頂く、アグチムが、メイン。韓国でも人気のある、TV「深夜食堂」の宣伝に来られた、小林薫さんが、とても気に入っておられたとか。
太刀魚(韓国名 ガルチ)も、てかてかに光って。美味しいですよ。

お客さまの携帯には、会社の同僚やご家族から、「大丈夫か??」のメールやSNSの問いが結構来ていたのですが、最後は、ここのあまりにもメディアの喧騒とは、かけ離れた風情に、かえすのも疲れてしまったようで、「本当に、ぜんぜん、何もないんですね。」と、最後は、刺身をほお張り、居合わせた地元の方とも、身振り手振りで酌を交わしたりして、夜は更けていきました。

蘇る金狼・・in 釜山?

釜山駅、 近くの街角
2011年も、もう2月半ばです。今朝、釜山も市街地まで、うっすらと、雪が被り、一面の冬景色になりました。
それでもクリスマスから、1月半ばまで続いた底冷えも、既に過ぎ去り、昨晩は近くの東莱MEGA・MART(大型スーパー)も、バレンタインのチョコを買い求める人たちで、一杯でした。ここ最近釜山では、街の至る所で、新空港建設運動の垂れ幕や、広告がいたる所で目につきます。
韓国政府が、推し進める仁川(インチョン)を核とした首都圏を巡る一大プロジェクトと、釜山のような地方都市の浮沈をかけた生き残り合戦。
一般人では伺い知れない、戦略的なプロジェクトを推し進めて、綱引きしながら、今現在も、日々進んでいる様に、近代的で且つ魅力的な街に整備されて行くのでしょうか。
艶やかに彩られた、もう今では、珍しい寝台車、食堂車を曳く 旧型車両・ムグンファ号
ここに来て、身内を含めて、戦争のことや歴史のことを話すことは、ありません。竹島を初めとして、日本のことが話題にのぼる事も稀です。(唯一度、カンのオモニが、ソウルのもっと北の江原道(カンウォンドウ)から、戦時、生まれ育った家を捨てて避難し、その行程で、弟さんを亡くして、抜け殻のようになった母親を引き摺りながら、釜山近郊まで辿り着いた話を、涙ながらに話をした、それきり。
[youtube width=”320″ height=”250″]http://www.youtube.com/watch?v=Ulq2GPh7fR8[/youtube]
(そういえば、つい、先日の九州、宮崎の火山噴火のことは、珍しく大騒ぎしていたが。)
ただ、面白いことに、近時、大ヒットして、色々なジョークのネタや、そこで使われたファッションも話題になっているドラマ、「シークレット・ガーデン」に象徴的に使われている、主人公の居住する邸宅の雰囲気(デザイン)や、シチュエーションが、北海道の著名な菓子舗「六花亭」が1980年の後半から、暫時、増設し整備してきた「中札内美術村」と、酷似していたり、劇中のクライマックスの場面での、海沿いを走る一本道が、道東から、稚内へと連なる道北の国道沿線の、風景にみえたり・・。
道北 オホーツク・紋別郊外の 国道238号線 冬の海岸線
[youtube width=”400″ height=”250″]http://www.youtube.com/watch?v=ZgzTi2X8jBY&feature=related[/youtube]
とにかく、なんだかんだ言っても、近いことは、近いのかなと、ひょんなところで、体感したりします。
釜山 の 港 (チャガルチ市場 裏手より)
自分の中の、くだらない私案は、釜山で、「探偵物語」の韓流版のリメイクを撮ってはと、いうこと。1970年代の横浜の港湾倉庫エリアの一角に、あの知る人には、なんともノスタルジック”な工藤探偵事務所”はあったような。
で、今の釜山なら、まだ日本のあの頃の風情を、再現できる気がする。港、うらぶれた路地裏、相半するように造成され林立するビル群そして、道路を神風タクシーのように、獰猛に走り抜ける車・バス。極めつけは、韓国名物、信号も黙殺・歩道も突っ走る、宅配サービスのべスパの勇姿。言わずもがなに、あの蘇る金狼・・ではなく、松田優作とその仲間達(笑)を思い出して、しまった。
[youtube width=”300″ height=”250″]http://www.youtube.com/watch?v=UWC0B17z1XI&feature=related[/youtube]
それと、長身でアクションをこなす韓国男優の中には、残念だが、日本の俳優より迫力のある新たな「探偵物語」を再現する予感が、些かでも感じてしまう。どんどん変化しているとはいえ、粗野と情がないまぜになっている韓国の醸す風土と気質の性か。
ところで、最近、韓国食の本当に安くて、体に美味しい、名ばかりでない薬食を提供しているお店を見つけた。ビジネスであっても、観光であっても、是非、単なるB級グルメではない、韓国食の魅力を感じて欲しいです。

やっぱり、人が面白い^^

KTX 特等車両の座席と、内装。若干の差額で、KTXのシートの不便さを解消できますよ^^

昨日、ガイド担当のカンは、大阪から来られた、お客様とともに、薬令市海印寺などで、知られる内陸の200万都市・大邱(テグ)に、釜山駅からKTXで向かいました。で、普通は、その模様を・・となるのですが、撮ってきた写真は、この1枚のみ。勿論、ガイドではなく、お客様が、韓国におられる30年来の知己の方と会われる席での、同行通訳でしたので、仕方ないと言えば、それまでですが・・。本当に、しっかりされてます、うちのカン先生^^。乗車まえに、いきなり「携帯、忘れた!!」と、釜山駅まで遠く、東莱からバイク便よろしく走らされたり。でも、仕事はきちんとするので、不思議です。

でも、本当の楽しみは、みやげ話のように頂いてくる、この機会を通じてしか逢うことのなかった方々とのなにげない会話より、もたらされるストーリーです。これまで、まだ数えるばかりの仕事しかお受けしていない現段階でさえ、つい最近まで「近くて、遠い国」といわれていた半島と、日本の間で、毛細血管のように、色々なつながりがあった事を、本当に、如実に知らされます。

お逢いする、日韓の先輩達の自分等が知らない、韓国から日本を見て、またビジネスをしてきたお話や、そうして、生き抜いて来られたバイタリティのある方たちの佇まいを感じながら、このサービスも、少しでも必要な方に、適切なかたちで、ご提供できるように営為、改善しなければと、思ってしまいました。仕事は確かに頂くという要素もあるかもしれませんが、やはり、つくっていくものなんだと、この小さな業務を通してさえ思いました。

地下鉄、南浦洞駅出口より、見た、「ロッテデパート 光復店」

ところで、つい最近、まで沈滞していた街中の南浦洞で、宿をとる方から、「ロッテデパートができて、便利になって良かったですよ。」と、よく言われます。地元の商店街の方たちも、「悲願だった・・」と言って、喜んでいるようです。本当に、今、釜山も激しく変わっています。

明けて、今日の釜山は、小雨まじり。桜が満開になるまで、脇役の花達が、街の一隅を埋めています。

東莱(トンネ)電力会社前の、満開の 白い木蓮の花

釜山で、中国人と話す、日本語。

釜山駅 近くの チャイナ街(上海ストリート)
釜山駅 近くの チャイナ街(上海ストリート)

この間、ひさしぶりに日本語で道を聞かれた、どこの国に行っても道を聞かれる性質なのは、今回に限った事ではない。でも、ここ釜山に来て、当初はともかく、ガイド業のリサーチに出るようになってからは、だんだんと、声をかけられる事はなくなっていた。しかも、日本語で声をかけられるのは、お店の客引きと、相場は決まっていたから・・。

ところで、そのひとは、日本人ではなく、中国の人だった。香港の近くで、昨今、急激に発展している、経済特区の深センの出身だという。そりゃ、大陸の地続きだから、なんの不思議もないと、気分的には思った。

ただ、釜山は、地下鉄も、日・英・中・韓と、4カ国語でアナウンスしている。時間帯によっては、日本語が堪能な年配のボランティア通訳の方が、切符を買うのさえ、手伝ってくれる。(だから、自分達も、買い物の橋渡しだけではなく、どういった所にお客様を、お連れすれば、喜んでいただけるのかが、勝負とばかり、リサーチに励む事になる。)

わざわざ、日本語まで、ぺらぺらの中国人が、道に迷うこともないだろうに。

そういえば、今回、自宅に、日本語を習いに来ていた、小学5年のサッカー少年が、父親が単身赴任していた上海に、一家で越して行く事と、なっていた。ダントツ、世界1の日本語学習者数を誇っていた韓国でも、日本語は理工系の高校などを除き、中国語にその座を譲っていっている。

その昔、オーストラリアに暫しいた時にも、華僑の力には、圧倒されたから、今になって中国の時代などという、つもりもない。(国力どうこうより、なんせ、世界で、14億以上の人数なのだから)それよりも、もっと、中国人がいてしかるべきだと、さえ思っていた。 釜山も、400万弱は抱える都市だが、大阪の方がもっと中国のひとは、いるだろう。いや、北海道の観光地、田舎でさえ、もっと。

そのひとは、日本(横浜)と中国を行き来きして、仕事をしているらしい。今回は、たまたまフェリーで、仕事ぬきで来たという。「韓国語は、話せないんで。」と、頭を掻いていた。そりゃ、タフな中国人も、人の子には違いない。南浦洞ではいきつけの、「ソウル・カクテキ」で、ソルロンタンを、食べながら、暫し、日本や中国の話になった。

深センにも、日本人は結構いくでしょう」 「ええ、すごく増えました」「香港の近くだから、広東語ですか」「いや、年寄りを除いては、ほとんど標準語(北京語)ですよ」あ~、そうなんだ、香港に近いとはいっても、やっぱり本土なんだなぁ。「一回行ってみたいですね」「え~、是非来てください、案内しますよ。」そこで、チョッと図にのって、「これからは、日本人も、深センで暮らすようになるかもしれませんね。」と、その時、その方の顔色がさっと、変わった。「風習・文化も違う、だから、よっぽど覚悟しないと、日本人が暮らすのは難しい。」やっと、漢民族らしい気配を感じて、逆に妙に腑に落ちた。